昭和44年9月14日 夜の御理解                  中村良一



今日、四時の御祈念のときに、御神前に出らせて頂いておりましたら、目の前にもう、一杯あの、昼顔ですかね、あの、よう堤防なんかに、いー、小さい朝顔の花のような花が咲いてますでしょう。どんなに炎天にでも、こうしぼまない花です。昼顔の花が一杯咲いておるところを頂いて、思わせていただくんですけれどもね。これは、やはり、私共が、朝の御祈念に、朝顔のような、あー、心が開けてくるなら、やはり、昼は昼で、やはり、昼顔のような、心に信心の喜びというものが、こうあらなければいけないし、また、夕方ともなれば、夕顔があの、夕方から、あー、それこそ、怪しいまでの美しさをね。えー、その、まあ、夕暮れに、咲き誇っておるような、もう、本当に、たとえば、朝、昼、晩を通して、私共が、とにかく信心の喜びを、何とはなしに感じれるおかげを頂くために、私共、生身を持っておりますから、朝は、あのように有難かったのに、昼は、何か暑かったきつかっただけしかない。夜は、何とはなしに、えー、有難いものが薄くなって行くというのじゃなくて、そういう意味合いでも、私は、御祈念ということが大事だということが分かるですね。私共、昼、下がってから、四時まで、何とはなしに心がうつろであったり、ただ、きついとか、眠いとかなんですけれども、やはり、四時の御祈念というのが、こう定められておりますから、四時の御祈念に紋付袴を着けて出てくる気持ちになると、もうそこから、生き生きしたものが頂く事が出来る。そういう意味合いで、御祈念は大事だなとこう思うですね。もちろん、御祈念、自分の心のなかに信心を頂いておる喜びというものが、感じれれるようなものでなからなければ、勿論いけないです。ね。朝に朝顔の花なら、昼に昼顔、夜には夕顔の花のような、まあ、信心が繰り返し出けて行かなければいけない。まあこれは、御祈念の有難さということを分からせてくださるのと同時に、いー、そこに、人間の生身を持っておる、一つの難儀というかね。確かに、朝は有難かったのだけれども、薄くなってくる。それを、昼なら昼の御祈念で、また、こう引き締めるといったような、そういう、例えば、あー、形の上のことですけれども、そういう信心が、やっぱり必要じゃないかとこう思いますね。どうぞ。